母と短歌、ときどきセカンドライフ ④「すずめ、フリージア。春待つこころ」

 残り飯をついばむすずめに声あげる 母の笑顔に吾もつられて

身の回りの自然や草木を詠むことが多い母の短歌だが、ときどき祖母のことが出てくる。認知症が少しずつ進行していった祖母の介護をしていた母にとって、祖母の姿は日常の風景の1つだったのだ。

介護というものは、どれほどの苦難と想いを重ねていくものなのだろうか。高校を卒業後上京した私は、年に数度しか実家には帰省せず、そのたびに祖母の変化を感じては悲しくなっていた。勝手なものだ。年に数回しか会わない私にとっては、会うたびにごとに記憶が消え、“おかしな”行動が増える祖母の姿は“劇的な変化”に見えたけれど、日々一緒にいた母にとって、その変化はゆるやかな、しかし確実に積み重なっていくものであり、それは自身の日常を徐々に変えていくものでもあっただろう。

介護が長くなるにつれ、母が笑顔の祖母を見る機会は減り、母自身の笑顔も減っていった気がしている。ただ、ときどき、ふとしたことで笑う祖母の笑顔に、母はフッと救われる思いはしたはずだ。そう信じたい。

すずめは、昔はよく庭で見かけた。ご飯を置いておくと、必ず食べにきていた。竹のかごで罠を作って捕まえたこともある。たいがいは失敗したけれど、一度本当に捕まえてしまって、鳴き声を聞いてかわいそうになり、飼うこともできず、すぐに空に放ってしまった……。とにかく、子どもの私にとって、朝早い時間にチュンチュンと鳴く声、両足でぴょんぴょん跳ねる姿がかわいくてたまらなくて、ずっと見ていた。

この歌のモデルになったときの祖母も、そんなすずめの姿を見て、思わず笑ってしまったのだろう。認知症は子ども時代の記憶を鮮明にするのだろうか。

すずめは3~4月にペアで巣作りを始めると言うから、自分があげたご飯が、巣の土台になるのか、赤ちゃん鳥のためのご飯になるのか、と考えると悪くはない気持ちになる。そんなすずめの数は、近年減っているらしい。なんだか寂しい気持ちにもなる。

介護は、「セカンドライフ」と切っても切れないものだ。私の母は、今の私の年齢くらいからずっと、仕事をやめて祖母の介護を続けていた。私は、両親や弟と離れて暮らしていることをいいことに、今のところ介護の“重み”を実体験として大きく感じずにすんでいる。しかし周りには、子育てがひと段落したらすぐ次は親の介護をしている、いや子どもがいなくても介護をしている同年代は多い。介護がある日常と「戦っている」という表現が正しいのかもしれない。

私などが言うのは本当におこがましいけれど、この歌の祖母の笑顔はきっと、祖母にとっても母にとっても、迷い込んだ森に差す木漏れ日のようなものだったのかもしれない。介護で日々を重ねている方々はきっと、一瞬の木漏れ日を支えに、一歩一歩進んでいるのだと思う。

めずらしく三月八日の雪降りに 窓辺のフリージャ春を待ちおり

「3月9日」というレミオロメンの大ヒット曲があったけれど、3月は卒業式など別れがともなう季節である。別れは出会いの始まりとは誰が言ったのか……。それにしても3月の雪って、なんだかロマンチックだ。

フリージアは春の花である。ようやく花を咲かせようとやる気満々の時期に雪が降ったら、フリージア自身も驚くだろう。

この歌は、前回紹介した「沈丁花」の歌のすぐ後に詠まれたものである。2001年(平成13年)の春、最初に紹介した「すずめ」の歌も同じ時期に詠まれた。

実家の出窓に白色と黄色のフリージアの鉢植えがあったことを覚えている。甘くて優しい香りがしていた。

 このフリージアが外で育てられていたとしたら、黄色い花に積もった白い雪とのコントラストが生まれていて、それはそれで美しかっただろうけれど、部屋の中で、寒そうな外の景色をぬくぬくと見ているフリージアの蕾を想像するとほっこりする。母の気持ちも、そのフリージアと同じだったのならいいなあ。春の訪れを待つことは、やっぱり気持ちを明るくしてくれるものだから。

 花言葉は「親愛の情」「友情」「感謝」「信頼」。門出をお祝いしたり、お世話になった方に感謝の気持ちを伝えたり、この時期のプレゼントにぴったりだ。久しぶりに、母へサプライズプレゼントでもしてみようか。

 

花火のような夜の沈丁花に感じる残り香。やっぱり散り際は美しいのです。花びらがすべて落ちたら、本格的な春がやってきます

帰り道の花屋で見つけたフリージア。3月のバースデーフラワー。母にはとりあえず写真を送りました。甘くて優しい香りよ、届け!

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